『日本語が亡びるとき』
水村美苗著
梅田望夫さんが書評を書いていたので読みたくなった本。
「すべての日本人がいま読むべき本」と書かれているからには。
僕は大学で「ソニープロジェクト」というソニーからの客員教授だった
渡滋さんの研究室で、UNIX上にJAVAを使ったネットワーク対応型の
政策決定過程シミュレーターをつくるという研究していたので、
LINUXの凄さや、インターネットやネットワークの劇的な進化は想定内だった
のですが、梅田望夫さんの『ウェブ進化論』は、まさに目から鱗でした。
当時は、LINUXを使いAPPLEを愛し、PerlやJAVAなどのプログラミング言語を習得し、
ゲーム理論やら利己的な遺伝子のドーキンス関連の本やらを楽しく読んでいましたが、
今は全くのご無沙汰です。
さて本書ですが、「英語の世紀の中で」という副題通り一貫して
英語が世界の共通語化(本書では「普遍語」)している、
インターネットの登場もあって凄まじい勢いで共通語化していることについて、
文章を書く立場、発信する立場である著者の日本人としての憂いが述べられています。
そのため途中まで読むと、そうか英語をもっと習得せねば!と思い、
本書でも「英語が読めたり書けたりせねばならぬ」ということで
結末を迎えるかと思いきや、そんな単純ではありませんでした。
著者は文科省の無策を嘆きつつ、日本の国益を考えて、
日本における英語教育は「国民の全員がバイリンガルになることを目指すこと」
ではないと言うのです。
「日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として
英語で意味のある発言ができる人材である」
外交官や国際弁護士の英語力があまりに低いため、どれだけの国益を
損ねてきたか計り知れないと、船橋洋一氏の『あえて英語公用語論』を上げて
指摘します。
国益を守るためには、平等ではなく英語について「<選ばれた人>をつくるべきだ」と。
そして英語教育よりも、日本語はもっと高度に教育されるべきだと主張するのです。
なぜなら日本語は文化であるから。
日本人は日本の文化や日本語は当たり前のものだと思い続けてきたけれど、
いつのまにか当たり前のものではなくなってきたということを説明するために
日本の都市ついて語る節があります。
「日本の都市の風景はどうなっていったか。・・・・・・・
古い建物はことごとく壊され、・・・・・・・
安普請のワンルーム・マンションと、不揃いのミニ開発の建売住宅と、
・・・・・蜘蛛の巣のように空を覆う電線だらけ・・・。
散歩するたびに怒りと悲しみと不快。」
完敗です。
日本は文科省だけではなく、都市計画も無策だったと痛感します。
文化は意図的に守る必要があると唱えるのです。
しかも一つの漢字を複数の音読みと訓読みし、
平仮名とカタカナが混じりながら構成される日本語は
世界にとって貴重な財産だといいます。
萩原朔太郎の詩から
「ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめて新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。」
フランスへ行きたしと思へども
フランスはあまりに遠し
フランスへ行きたいと思うが
フランスはあまりに遠い
せめて新しい背広をきて
きままな旅にでてみよう
この違いが分かる日本人を育て続けなければならないと結論づけています。
あとはメモ。
「人類は文字を発見してから約六千年のあいだ、ほとんどの場合、
自分が話す言葉ではなく、<外の言葉>−そのあたり一帯を覆う、
古くからある偉大な文明の言葉で読み書きしてきた」
「書き言葉の本質は、書かれた言葉にはなく、読むという行為にある」
「叡智を求める人」が入ることができる「図書館」は英語だという事実。
アメリカの「ダム・クラス(お馬鹿さんクラス)のような(日本の)国語教育」